少数の兵力を分散させた藤原秀澄の愚策

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西暦1,221年6月24日
朝、朝廷が公卿僉議を開き、以下の場所に12,000騎の派遣を決定する。直様出発した。大将軍は以下の通り。
①大井戸渡(現在の岐阜県可児市土田):大内惟信(2,000騎)
②鵜沼渡(現在の岐阜県各務原市鵜沼南町):斎藤親頼・神土蔵人(1,000騎)
③板橋(現在の岐阜県各務原市鵜沼朝日町付近):朝日頼清(1,000騎)
④池瀬渡(現在の岐阜県各務原市前渡東町付近):土岐光行・土岐光行の息子土岐国衡(1,000騎)
⑤摩免戸(現在の岐阜県各務原市前渡西町):藤原秀康・三浦胤義・佐々木広綱・佐々木髙重・小野盛綱・惟宗孝親(10,000騎)
⑥稗島(現在の岐阜県各務原市下中屋町付近):小野成時・矢野治郎右衛門(500騎)
⑦印食渡(現在の岐阜県羽島郡岐南町下印食):山田左衛門尉(500騎)
⑧墨俣(現在の岐阜県大垣市):藤原秀澄・山田重忠(1,000騎)
⑨市脇(現在の岐阜県羽島市下中町市之枝):加藤光定(500騎)
更に北陸道へも7,000騎を差し向けた。重忠は、少ない兵力を分散させるのは愚策であるとして、兵を1つに纏め、此方から木曽川を渡って尾張国へ攻め込み、遠江国で北条時房・北条泰時を討ち取って、鎌倉に進軍し北条義時を討って、更に北上して北条朝時を討つ、という作戦を進言した。しかし秀澄は、東山道軍・北陸道軍に挟み撃ちにされる恐れがあると反対し、却下した。

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