後鳥羽上皇の討幕計画を密告した伊賀光季、息子の伊賀光綱と共に自害する

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西暦1,221年6月6日
明け方、伊賀光季の京極高辻(現在の京都府京都市下京区茶磨屋町付近)の宿所を、以下の人間等が率いる800騎余が取り囲む。
①藤原秀康
②三浦胤義
③大江親広
④佐々木広綱
⑤佐々木高重
⑥五条有範
⑦肥後前司有俊
⑧糟屋有季の参男糟屋有長
⑨間野時連
此れを見た郎党贄田三郎が、光季に「此処は全ての門を開いて、敵を有りっ丈入れた中へ殴り込み、思い切り暴れ回って最期を飾りましょう」と進言した。此れに対して三郎の弟贄田四郎は「小門飲み開ければ、其処から敵は入って来ます。雑魚は弓で狙い撃ちするとして、名の有る者だけを入れて、一騎討ちで雌雄を決するべきではないでしょうか」と反論した。光季は四郎の案を採用し、小門を開けた。先ず、黒革縅の鎧を纏い葦毛の馬に乗った、三浦胤義の家人志賀五郎が入って来た。三郎が此れを射た所、矢は馬腹に当たって馬が暴れ出し、志賀は逃げ出した。次に入って来たのは岩崎右馬允で、此れは贄田右近の矢が馬の股に命中した為退却した。3番手は岩崎弥太郎であったが、籠手を射られた為退却した。4番手は高井時義で、館の奥深くまで進入する事に成功したが、左股と右籠手を射られて退却した。光季は敵方の「正門を突破して雪崩れ込め」という言葉を聞き、力押しに破られるくらいなら、いっそ此方から開けてやれ、と治部次郎に命じた。正門を開くと、敵方が一斉に雪崩れ込んで来た。間野は光季に勝負を挑むが、館の奥から出て来た光季が矢を射掛けると、恐れをなして、馬首を返し退却した。次に三浦が進み出て「やっと穴から出て来たな、臆病者め。其方の悪運も此処迄ぞ。観念せえ」という主旨の発言をした。此れに対し光季は「何を抜かすか此の戯け。後鳥羽上皇陛下を唆して天下を奪わんとする其の野心はお見通しじゃ。者共、此の三浦さえ討てば後は雑魚ばかり。一斉に射止めよ」と発し、郎党達は三浦を目掛けて矢を射掛け、三浦の側に居た兵が次々と斃されていった。一方伊賀光綱は、元服に際自身に烏帽子を被せてくれた高重の姿を見つけた。光綱は「高重殿なら相手に不足はありません。兼ねて烏帽子親子の契りを交わし、貴方から頂戴した矢を此の通り大切に持っております。しかし此度は、父上の最後にお供致します故、此の矢はお返しせねばなりませぬ」と、重籐弓に矢を番え、矢を射掛けた。其の矢は高重の鎧の弦走に突き刺さった。高重は「光綱よ。誠に立派になったな。行く行くは其方を婿としたかったが、今となっては其れも叶わぬ。嗚呼、此の止まらぬ涙は喜びか、悲しみか」と感激し、もう戦いにならないと引き上げて行った。周囲の者は貰い泣きした。伊賀側は奮戦するも、館は火を掛けられ、生き残った郎党は三郎と四郎だけになった。三郎は「最早此れ迄。最後のご奉公として死出の旅路を先導仕る」と、血で錆びた太刀の切先を口に含んで鍔際まで一気に押し込み自害した。四郎は「後は矢の続く限り某がお守り申す。早うご最期を」と、矢を放って防戦した。光季は光綱を呼び「四郎が時間稼ぎしてくれている間に自刃致そう」と言った。光綱は「自刃とはどの様に致すものでしょうか」と尋ねた。光季は「難しい事では無い。腹を切れば良いのだ」と答えた。光綱は、腹巻の紐を切って脱ぎ置き、直垂を緩め、赤木柄の脇差を握ったが、中々覚悟が出来なかった。光季は「無理も無い。では火の中へ飛び込むと良い。腹を切るよりは怖く無かろう」と言った。光綱は「はい」と答えたものの、飛び込む事は出来なかった。光季は「よし、分かった。光綱よ、此方へ戻っておいで」と、光綱を側に座らせた。光季は「親子は前世で契り合った縁と言うが、其方程絆の深い子は又と居るまい。出来る事なら生き延びて幸せになって欲しいと願う所だが、父の供をしたいという思いを尊重したい。此れは生きてするどんな親孝行にも勝るもの。親子一緒に死出の旅路を行けるなら、此れ以上の喜びは無い」と言って、光綱と抱擁をした上で、斬首した。そして光綱の遺体を火中に投げ入れた。光季は東を向いて「南無帰命頂礼鎌倉八幡大菩薩若宮三所。此の身を擲って北条義時殿が武運長久を祈願し奉る」と、3度拝礼した。続いて西を向いて「南無西方極楽教主阿弥陀如来。生きとし生ける全ての魂を救われる貴方の願いが確かであるなら、どうか我らを迎え給え」と、3度拝礼した。其の後念仏を30回繰り返し「死出の旅路の殿は某こそが仕る。今は此れ迄」と割腹して光綱の遺体に覆い被さった。後鳥羽上皇は此の日、北条義時征伐の院宣を下した。

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