カルトロップと塹壕はムスリムに有効である

7 months ago
2

西暦637年4月
ハシム・イブン・ウトバが、ウマル・イブン・ハッターブの命により、12,000名の兵を率いジャラワ(現在のイラクのディヤーラー県)へ向けて進軍する。サディ・ブン・アビ・ワッカスがハッターブに対し、ジャラワにクテシフォンから敗走したササン朝ペルシア軍残党等が集結している事を報告した上で、ハッターブが出した結論であった。ジャラワは以下の地域に通じるルートが在り、戦略上重要な場所であった。
①現在のイラク北部
②ホラーサーン(現在のイラン・アフガニスタン・トルクメニスタン)
③現在のアゼルバイジャン
ハッターブは、ティクリートとモースルを攻める前に後方の敵を掃討しようとしていた。また、ジャラワへのササン朝ペルシア軍の戦力の集中は、ムスリムがイラク北部へ侵攻する上でのボトルネックとなっていた。ジャラワのササン朝ペルシア軍は、以下の2名が指揮していた。
①ミフラン・ラジ(指揮官)
②ファッルフザード(副官)
そしてムスリムは、ジャラワの要塞の外でササン朝ペルシア軍と遭遇した。そこはディヤーラー川と崩れた地面に囲まれていた。崩れた地面は騎兵・歩兵の移動には不向きであった。ラジは、ムスリムとの戦闘経験の有るベテラン将軍であり、ムスリムの戦い方を熟知していた。ラジは、ムスリムの進軍を遅らせる為に、塹壕を掘り、その前にカルトロップを置いた。ラジの戦略は、ムスリムに正面攻撃を仕掛け、射手や攻城兵器の大砲によってムスリムを疲弊させるというものであった。ムスリムは、ラジの仕掛けたカルトロップによって、進軍を妨げられた。ラジは、ムスリムの中核が疲弊したタイミングで攻撃する事を意図し、古典的な陣形で布陣した。ハシムも戦場に駆け付けるが、現場のディヤーラー川に囲まれた地形と崩れた地面を見て、側面からの攻撃は困難で、正面からの攻撃は多大な犠牲を払うと判断した。ハシムは、塹壕とカルトロップに守られたササン朝ペルシア軍を誘き出す為に、敢えて正面から攻撃し、退却する振りをして、ササン朝ペルシア軍が塹壕から離れたら、騎兵隊が塹壕の上の橋を占領して逃げ道を塞ぐ作戦を立てた。ムスリムの陣容は以下の通り。
①ハシム(総司令官)
②カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ(前衛)
③シル・ビン・マリク(右翼)
④アムル・ビン・マリク・ビン・ウトバ(左翼)
⑤アムル・ビン・ムラ・アル・ジュハーニ(後衛)
後から増援として以下の人間がやって来た。
①タルハ・イブン・クワイリッド・イブン・ナウファル・アル・アサディ
②アムル・ビン・マアディ・ヤクリブ
③カイス・ブン・マクシュフ
④フジュル・ビン・アディ
ムスリムは正面攻撃を開始した。暫く交戦した後、予定通り退却する振りをして全体を後退させた。ラジは、攻撃を開始する時が近づいている事を察知し、塹壕を埋めさせた上で総攻撃を命じた。ここまでは両陣営は思惑通りに戦闘を進めた。ラジが野原でムスリムと交戦すると、ハシムはタミミ率いる騎兵連隊に、警備が手薄になっていた塹壕に架かる橋を占領させた。タミミは、ササン朝ペルシア軍の右翼を迂回して橋を占領した為、ササン朝ペルシア軍の後方に位置する事となった。これにより、ササン朝ペルシア軍はディヤーラー川とムスリムに挟まれた形となり、士気が著しく低下した。ハシムは歩兵を使って正面攻撃を開始した。タミミは戦況を見ているだけであった。ササン朝ペルシア軍は、多数の死傷者を出し大敗した。それでも数千名の兵が、このムスリム包囲網を何とか抜け出し、ジャラワの要塞に辿り着いた。ハシムは戦闘後にジャラワを包囲した。現地のササン朝ペルシアの女性・子供は戦利品として奴隷となった。ハッターブは「これから生まれてくる奴隷の女たちの子供達を恐れ、私はアッラーに帰依します」と言った。

宇宙一元化 公式HP
https://uc-4.com/

Loading comments...