ハッターブが下したワリードの降格処分は妥当だったのか?

1 year ago
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≈西暦637年6月
以下2名率いる軍が、ダマスカスを経由してエメサに到着、その数日後にハジル(現在のシリアのアレッポ県マウントシメオン地区)に入る。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
ワリードと機動警備隊を先頭としていた。そこで司令官メナス率いる7,000名の東ローマ帝国軍守備隊の攻撃を受けた。メナスは、もしキンナスリーンに留まれば、ムスリムに包囲され、ヘラクレイオスからの助けは期待出来ない為、最終的に降伏する事になるだろうと考え、本隊が合流する前に先制する作戦を採った。戦闘はアル・ハヘル(現在のシリアのアレッポ県マウントシメオン地区)の農村で始まった。メナスはワリードと同様に前線で軍を率い、中央部隊と両翼に兵を配置した。メナスは戦いの序盤で殺害された。メナスの戦死の情報が東ローマ帝国軍に広まると、兵達は怒り、敵討ちの為激しい攻撃を行った。しかし東ローマ帝国軍は、ワリード率いる騎兵連隊に後方から攻撃を受けて包囲され、メナス率いる守備隊にとって嘗て無い大敗を喫した。戦闘が終了すると、直ぐにハジルのアラブ人は、ワリードを出迎え、敵対するつもりは無い事を主張した。ワリードは降伏を受け入れ、キンナスリーンへと向かった。

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