後醍醐天皇が隠岐島を脱出、船上山の戦い

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西暦1,333年4月14日
鎌倉幕府軍は隠岐守護佐々木清高が2,000名の兵を率い船上山を包囲したが大軍であると考え攻撃を躊躇していた。後醍醐天皇の軍に名和長年の弟で大山寺(現在の鳥取県西伯郡大山町)の僧兵であった信濃坊源盛も若い僧兵達を引き連れ加わり、後醍醐天皇の軍は小勢と見破られない様に時折矢を放っていた。やがて鎌倉幕府軍は攻撃を開始したが、麓で指揮を執っていた佐々木昌綱が流れ矢を眼に受けて戦死し、昌綱が率いていた500名の兵は怖気付き戦意を失った。また、搦手で800名の兵を率いていた佐々木定宗が降伏した。この状況を知らない清高は味方が船上山に近づいていると誤認した儘進軍するが、日暮れに激しい暴風雨に遭い木陰に避難した。この機を逃さず名和は射手を率いて攻撃に転じた。鎌倉幕府軍が慌てた所を斬り付け、行き場を失った1,000名の幕府側の兵が谷底に落ち多数の死傷者を出した。清高は700名の兵を率い小波城(現在の鳥取県米子市淀江町)へ敗走した。その後後醍醐天皇は山頂に行宮を建て、倒幕勢力を結集させる為に第12代菊池氏当主菊池武時等に綸旨を送ったり、倒幕計画を練りながら滞在した。

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