東憂国さんの調査

1 year ago
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こんにちは。まさじ探偵です。先日関西地方にちょっと変わった男がいると聞き、こちらで少し調査をしてみました。その男の名は東憂国(アズマユウコク)と言いますが本名はまた別ですが今回は東憂国で紹介しましょう。それから、今回は安全のために、暴力団の組名にも触れません。あずまさんはもともと子供の時、親に捨てられ、教護院で育ち、料理の世界で下積み生活を送って、学生生活を終えると関西セルラー、NTTドコモ、トヨタ自動車などの一流企業渡り歩き、その後、薬物の密売人などをしながら暴力団組織に入り、不良債権や車の売買をする傍ら、持ち前の明るさと人徳で驚くほどの人脈があります。また普通の人が経験しながら体験をしているとの事で、コンタクトを取ることに成功しました。

今まで変わった体験をした人は多数みてきましたが、実際の年齢より声を聞くとだいぶ若く感じるこんなタイプの男にどんな話を聞けばいいのか悩んだ末、ストレートに「あなたが知っている変わった話を教えてください」と言ってみると、「自分にとって当たり前の生活が周りの人から見たら、変わったように見えるだけで、特に自分は変わっていると思っていないので、これといって話ありません」と話を遮られました。

大手携帯電話会社で不正契約を行った憂国さんは自ら会社を辞め、京都の憂国さんと言う男に教えてもらいました。偽造のテクニックをいちど試してみたいそんな思いから自分で作った偽造免許証を持って、携帯電話会社行った携帯電話会社のことなら何でもわかっているんですけど、自分の働いていた会社はやめようと他の大手キャリアのショップに行き、免許証出して携帯電話を二台契約しました。

当時は銀行口座がなくても携帯電話が契約できましたので免許証一つで簡単に携帯に電話が手に入りました。偽造免許証を使ってレンタカーを借りてみました。レンタカー会社を騙す事は簡単でした。だから偽造免許証を使って騙すのが1番難しいと言われているのがサラ金です。
サラ金の店舗では免許証の厚さ等を見ると師匠である憂国さんから聞いたことがあります。
もちろんこの免許証は本物の免許証を、特殊な表面を消して、あるブランドのフイルムに印字した写真や住所氏名等をそのまま貼り付けていますから、厚さも全く変わりません。

まずは先に電話審査をしました。仕事先は人夫の会社で在籍確認を取られても、その人夫の会社の電話番も、「今いません」、としか言わない会社を、あづまさんは知っていました。その日その日によって、集まる日雇い人夫がたくさんいますから、電話番号もいくら誰々さんいますかと言われても思い切れないでしょう。もちろん給料明細はパソコンで作りました。

家に電話がなかったんですが、一般の電話番号を貸してくれ、その番号で転送してくれる会社に10,000円払うと、身分証すら出さなくても、僕の携帯電話に転送されるようになりました。
これで家に電話がなくてもサラ金会社は騙せます。勤続年数5年、居住年数5年、年収3,000,000円などと適当に電話で前もって言ってあります。すると店頭までお越し下さいと言われました。

自分が作った免許証がどこまで通用するでしょうか?後で説明しますが、京都の憂国さんが作った偽造免許証を東憂國さんは見破りました。しかし、東憂國さんが作った偽造の免許証はサラ金会社は見破ることができるのか?店頭に行くと、身分証明書と給料明細を出すように言われましたので、サラ金会社は行ったことなかったんです。

東憂國さんは一度は自分の名前で行けばよかったと店頭に着いてから後悔しました。数枚の書類にサインをすると現金300,000円が目の前にあり、それを受け取ると、もしかして店を出た瞬間に捕まるのではないかと急に怖くなりましたが、「ありがとうございました。またお待ちしております」と言われました。丁寧に女性の店員が頭を下げてくれています。こっちは騙して、お金までもらって、おまけにお礼まで言われて、くせになりそうな犯罪ですけど、東憂國さんは自分の腕を試したかっただけみたいで、お金が欲しかったわけでは無いようですから、このお金も月々返していったんです。

するとサラ金会社が「枠を伸ばすからご来店下さい」と言いました。この頃、東憂國さんは自分の名前でもサラ金でお金を借りて、いろいろサラ金会社のことを調べながら多重債務でもお金が借りられない人にそんな人でもお金を借りれるサラ金会社を紹介する仕事、当時流行った紹介屋をやっていました。

サラ金と言うのはルールがあって、難しいところから借りていくことが当時は大切でした。今は年収の3分の1と決まっていますが、当時は決まっていなかったため、支払いさえきちんとしていれば、何件でもまたはいくらでも借りれました。

だけど借りる店の順番を間違えると借りる金額も借りる件数もぐんと少なくなります。それを順序よく教えるのが紹介屋の仕事です。だからこそ今度行けば、住民票等から存在しない人物だと言うことがばれていることも知っています。

だがそのことを友人に言うと言う人は全く信用しません。お金に踊らされているのです。東憂国さんは嫌でしたが、サラ金会社にはたくさんの人が来ます。1度行った位です。顔なんか覚えていません。

そんな友人の言葉も信用できませんでした。だがその友人はどうしても自分が行きたいと
申し出たため、いやいやだが、偽造免許証の写真を入れ替えました。友人はそれを持って大手サラ金会社に出向いたんです。手続きは滞りなく進み、お金を受け取って、「ありがとうございました。またのご来店お待ちしてます」と女の子が気持ちよく挨拶しました。

お店を一方外に出た途端に、その友人は警察官8名に囲まれました。偽造免許証が住民票を調べた結果、存在しない人物だと言うことがばれていたのです。やはり憂国さんの感は当たっていました。だがその友人は軽々しく、警察の取り調べに耐えられず、憂国さんの名前を言ってしまったんです。

だが憂国さんはその相手に本名を教えてなかったんです。警察は憂国さんと言う名前だけでは捕まえられないと捜査を諦めました。そんなことが何度か続いたんですが、憂国さんは一切捕まることがなかったんです。警察関係者はどうにかこの憂国さんの正体を調べようとこつこつと捜査を影で進行していました。

だが警察の大きな課題はこの憂国さんと言う男が何者かわかった上でも、事件を否認すれば、この捜査は終わってしまいます。偽造何かやっていません。つまりその言葉が出ても対応できるように使用しているパソコン、偽造免許証、その他偽造関係に関するものなどを押収しなくてはなりません。

まずは憂国さんが何者か、憂国さんはどこに住んでいるか、憂国さんの家族関係、それらを調べることが警察の最大の課題でした。憂国さんは大手携帯電話会社を辞めてから一切本名なのらなくなったんです。住居は他人名義で借りたマンションを転々としていました。家賃さえ滞納しなければめくれる事は無いんです。だから警察の厳しい捜査から逃げることができました。そんなことがいつまでも続くわけがなかったんです。

かなりさかのぼって、幼少の時の話を聞くと、昭和40年頃(西暦1965年)両親ともに集団就職で父親は山形から、母親は三重県から東京にやってきました。当時母親は電電公社(現在NTT)の役員と結婚し、長女ができましたが、ありあまるお金と引き換えに家庭に閉じこめられる生活をしていましたが、そんな生活よりもやはりたった1度の人生、自由を選んだ母親はその家を飛び出した銀座のホステスとして羽ばたいたその時に当時暴力団組織組長だった男性と出会い、それが東憂国さんのお父さんとお母さんになります。

母親にとってその暴力団組長に魅力があったのではなく、その暴力団組長が持っているお金に魅力がありました。 憂国さんが生まれると家族4人で生活するのがこの家族にとって夢になるはずでしたが、父親は東憂国さんが誕生するとともに暴力団組織は覚せい剤と縁を切りましたが、酒を飲みくれる生活で傷害事件や公務執行妨害などで警察官に捕まる日々で家には帰ってきませんでした。

山形と言う田舎から出てきた父親は実家の山形にも帰ることがあまりありませんでした。それは以前のように金を持っていない父親だからかもしれません。だから母親も家に近づく事はしません。姉と2人で幼い頃から生活するようになり、近所に住む叔母さんが1週間、もしくは2週間に一回来ます。

それがこの2人にとって唯一の心の支えでした。その後いつまでも叔母さんに頼るわけ行かないと思った母親は姉さんが高校卒業すると同時に1人で生活できるので、憂国さんだけを施設に投げ捨てる様に手続きを進めました。

もちろん中学1年生でありながらタバコも吸っていましたし、シンナーを吸引していたり盗んだバイクや車などを無免許で乗り回し、地元の暴走族、紫陽花(あじさい)連合や藁人形等と言う暴走族に顔を出し、朝方までいつも遊ぶ生活をしていました。小学生時代は無口で地元の友達や少し離れた地域のお友達と遊ぶことも多々ありました。当時から友達の視野が広かったのかもしれません。だからこそたまに学校に行けば、クラスではみんながいろいろな話を聞いてくる為、机の周りにはたくさんの人が集まっていました。

中学生の時は髪を茶髪にしたり開襟シャツを着て今の時代では信じられませんがバイクで通学していました。学校の先生からのお願いは学校でだけはタバコを吸わないでほしい事でした。バイクで来るならバイクは学校の外に止めて欲しいと言うお願いもありました。そんなことを言う谷野(たにの)先生も実は無免許で車を運転して通勤していました。

学校でタバコを吸うなと言いながら職員室でタバコを吸いながら説教しました。そんな大人の言うことを聞いて自分自身大人にならなきゃいけないのがその時1番の悩みだったそうです。
当時何も知らない憂国さんはたまに帰ってくる母親が家にいる時だけ家に帰りました。母親が帰って来たと喜んで家に帰った憂国さんを待っていたのは大人の男性3人でした。

帰るとすぐさま車に無理矢理乗せられ、そのまま保護施設に連れて行かれ、その後、教護院へ移送となりました。こんなやり方なんてあるのか?あんたは俺の親じゃなかったのか?親は子供に対してそんなことをするのか?と親に対して憎む気持ちしかありませんでした。でもこの頃から憂国さんには2つの力が備わりました。

1つは一度でも会った人の顔二度と忘れなくなった事で、2つ目は人の顔色を見てその人が何を考えているかわかるようになってきた事です。その代わりに人一倍寂しがり屋になりました。
だからこそ教護院に行くと年上でも関係なく喧嘩をしました。でもその中で気がついたのは人生には年齢は関係なく実力主義だと言う事です。将来の夢は料理人でした。でも中学卒業で一流の料理になるには難しいと教護院で高校進学を選び、東京都立で進学校で唯一全寮制の秋川高校に入学することができました。

その時には努力すれば夢が叶うことを本人は学びました。でも現実は違いました。それだけ真面目な学校に行くとタバコすら許してもらえませんでした。タバコを吸っただけで当時退学になるような学校は珍しかったです。それからまたやはり母親に連れて行かれ、わからん、帰ってくるなって言われました。

これで東憂国さんは2回母親に捨てられました。アルバイトでパン屋さんで働いたり中華料理屋さんで働いているときに自分は料理人になりたかったそうですけど、高校卒業と言う肩書きが必要で、大阪の高等学校を卒業しました。でも高校卒業と同時に選んだのはどこの料理の世界ではなくて、金携帯電話の会社でした。

まだ一般に携帯電話が普及されていない時代に東憂国さんは料理人よりも携帯電話の世界がどんなものか、とても興味があったんです。だからこそ大阪梅田に本社があった携帯電話のキャリア関西セルラーに入社することになりました。

関西セルラーに入社するとまず個人情報の大切さを教えられましたが、世間では当時今のようにそこまで個人情報は大切にされていなかったんです。もちろん個人情報保護法と言う法律もなかったんです。

以前は携帯電話の契約の際、身分証明書と言っていましたが、現在はご本人確認証明と言います。わざわざ携帯電話を契約するのに身分を証明しなくてはならないのかという苦情も多々あった時代です。

もちろん東憂国さんと言うのは現在活躍している名であり、本名ではないんです。実はこの携帯電話のキャリアのショップで働いているときにいつも通り、携帯電話の契約書を書いていただき、身分証明書預かった時、毎日本物のブランドの鞄や財布を持っている人は他人が持っている偽物の鞄や財布を手にするとその生地の違いやなんとなくふいんきで偽物かわかります。

東憂国さんも警察官でもないし、免許書を作っているわけではないのに、お客様が提示した免許証を見ると何か違和感を感じました。バックヤードに行き、すぐに上司に報告すると「免許証が本物か偽物か決めるのは僕たちじゃない。僕たちはこの値段で、証明書で契約できるかできないかを決める権限を持っている。偽者か本物か決めるのは僕たちじゃない」と言われて、その上司の言葉が頭に残ったそうです。だからそのお客さんには「お客様のことを知りません。こちらの身分証明書ではご契約いただけません」と言ったそうです。
そんなことまであとしなければ警察を呼ぶように言われていました。だがお客様が納得したそうです。仕事が終わり、帰ろうと駅に向かうとその男に声をかけられました。「ちょっと食事に付き合ってくれないか」というその言葉に少し恐怖を感じました。

「今日はちょっと忙しいので」と言いましたが、その男は「あなたの時間を取るのだから決してただとは言わない」と言いました。

その当時の東憂国さんは大嫌いな母親の影響受けていたのか、高校生時代に燃料をして作業行っていた水商売が影響したのか、居酒屋に行くことに同意していました。

その男性の名前こそ京都に住む憂国さんと言う名前でした。年齢は東憂国さんより3歳年上で23歳でした。「君はなぜあの免許書が偽物と気がついたんだ」と聞かれ、東憂国さんは言いました。「フォントがなんとなく違うんです、もちろんあの書体が何と言う書体かもわからないですがなんとなく違うんです」。

「そこまで言うならあのフォントはなんていうフォントや」と言われましたが、当時の東憂国さんは答えませんでしたが、「でも何度かショップのほうに来たことありますよね、僕、何度かアルバイトでサービス業やったことあるからいちど見た顔は忘れないんです」と言いました。

「免許証も僕の過去に来たことにも気がついたのは君だけだ」と京都の憂国さんは言いました。教護院に無理矢理連れてかれ備わった力で一度見た人の顔は忘れません。そして人の顔色を見て生きていくためその人が何を考えているかをよくわかります。

この時にこの人のそばには居てはなりません。と頭に信号が来ましたが、人一倍寂しがりやの憂国さんはこの先何が起きるか面白そうだなぁと感じていました。京都の憂国さんはこれから先、偽造免許証用意しますから携帯電話をこれからも作らせて欲しいと言う話をしてきましたが、もちろん当時の東憂国さんはその話を断りました。

だが、京都の3歳年上の憂国さんがこれから先、いろいろな人間か偽造免許証を持っていきますから携帯電話を作らしてくれたら1台あたり数万円のお金を払う。などと言うと
幼い時お金に困っていた東憂国さんは世の中、お金と感じていましたのでつい承諾してしまいました。

後日見たこともないような1日、東憂国さんの会の前に座り携帯電話の新規契約は頼んできましたが、やはりその人が持ってきた免許証は偽造でした。京都の3歳年上の憂国さんと約束をしました。それ以外にもおよそ1年ほどかけて京都の憂国さんの自宅にまで足を運びました。
すると突然京都に住む憂国さんはテレビ台の下から10,000円札を取り出しました。そして東憂国さんに10,000円札を渡すと「それいるか?」と京都の憂国さんは質問しました。

東憂国さんは「もらえるんだったら欲しいです。でもなんか少しおかしいですね。この10,000円札顔がおかしいんです」とあずまさんは答えました。いちど見た人の顔は二度と忘れません。そんなことからなんと目の前にあったのは偽物10,000円札でした。京都の憂国さんがこの10,000円札を折ると「これは僕が作った偽物だ。日本にはたくさんの偽札が流通している。だってこの偽物の10,000円も5000枚ほど作って使っているが未だニュースにならない。あまりにも精巧な10,000円札は日本がパニックになるため政府は気がついていても言わないんだ。このことに気が付く人がたくさん現れるのが怖いんだよ、日本が転覆するからね」と言いました。

何度か京都の憂国さんの家に通っているうちに免許証、保険証、住民票、印鑑証明、などあらゆる書類の偽造の方法教えてもらいました。ある意味京都の憂国さんは東憂国さんにとって偽造の先生でもありました。偽造免許証の件は彼が気がつかなかったことにすればいいとも思ったらしいです。

「でも何があっても6ヶ月以内の解約だけはやめて欲しい。何があっても6ヶ月以内は電話料金払わないとか強制解約を含めて解約だけはしないでほしい」とも考えたらしいです。
当時携帯電話ショップは電話機を無料で配っていたため新規で契約され、さらにすぐ解約されることを1番恐れていました。

憂国さんはいつも売り上げナンバーワンの新規契約数を誇っていましたが、この話のお陰で2位との差が大きく開き、会社からも表彰されました。そして憂国さんの口座には次から次へとお金が入ってきました。憂国さんの生活も派手になり、新車で車を買うことまでしました。

だがそんな生活も長くは続きません。携帯電話の不正契約はおよそ500台位した頃、その500台の契約が一斉に解約されました。つまりすべての電話料金を支払わなくなったんです。携帯電話と言うのは1台1台どのお客様が契約したか分かるのはもちろんのこと、どのスタッフが契約したかも全てわかっています。

案の定、憂国さんは上司に呼ばれ、行ってみると「君も知ってると思うが、なぜ君が契約した携帯電話、こんなに一斉に解約になったのだ。それも強制解約だ」と叱られました。その後の調査で、すべての身分証明書に使われている運転免許証のフォントが違うことがばれました。
なぜか東憂国さんがすべて契約書類を作成しています。会社は刑事告訴することも考えていました。

だから東憂国さんは気が付か無かったと言い訳をしましたが「じゃあなぜ君の契約だけ解約になったんだ。なぜ君の契約だけ偽造免許なんだ」と尋問されました。東憂国さんは大きな胸騒ぎがしました。目を閉じるとこの会社を辞めなくてはなりません。でもそれだけでは収まりません。だから一身上の都合で会社を辞めると東憂国さんのもとに警察はやってこなかったんです。でもいつ警察が来るかと考えると気が気じゃなかったんです。

すると京都の警察がやってきました。「この男を知ってるよね」と警察は聞きました。警察から見せられた写真を見ると忘れもしないあの男の写真でした。あちこちの銀行窓口から東憂国さんの口座にお金を振り込んでいることがわかり、警察は東憂国さんのところにやって来ました。

関西セルラーを辞めた後だったので、関西 セルラーで勤めていた事もばれていなかったんです。もちろん写真を見ても見覚えがなく、わからないと言いました。「ではなぜこの人が君の口座にお金を振り込んだんだ」と警察は尋問しました。また教護院のように自由の世界に行かなくてはならないのかと頭の中は痛かったです。
だからこそわからない。知らない。と答え、幼いときの生活を言って援助してくれる人がいましたが、名前は知らないと言いました。それ以上、話を聞いても進展がないため、警察は諦めて帰りました。事件の詳細は教えてもらえなかったんですが。

でも彼の師匠である憂国さんを探すため、あきらめずに、彼は憂国を名乗り、憂国さんを探す人生が始まりました。この憂国さんとすると次から次えといろんな人が目の前に現れました。それは何故かと言うと、当時アンダーグラウンドの情報もといえば、でんすけと呼ばれる伝言ファックスでした。

ファックスのボックスには拳銃の取引や覚せい剤の取引、注射器の取引、女性の下着、売春、ヤミ金の情報など、いろいろアンダーグラウンドの情報が入っており、それを0990の番号で始まる伝言ファックスを使い、そのようなウラ情報は取引されていました。

だから憂国さんの名を使えば、あの憂国さんに会えると東憂国はアンダーグラウンドの世界にいっぽずつ足を踏み入れたのです。数年後、京都の憂国さんは殺されたと風の噂で聞きました。そういう情報が入ってくるのも憂国と言う名前を使っているからでしょう。

憂国さんはその後いろいろな人間と出会い、いろいろな体験をしていました。今後もこの男について調査していきたいと思います。また次回までよろしくお願いいたします。

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